ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック
村上春樹


第一部
スコツト•フィッツジエラルドと五つの町


コンクリートとガラスの楽園 ニユョーク州ニユーョーク


rider new york guide

点線がコートラント•ストリート•フェリーの航路。

(А) のあたりにジャージー•シティーの中央駅があった

今、僕の手もとに一冊の古い本がある。ホテルのベッドの枕もとに置いてある聖書 くらいの判型で表紙はくすんだ緑色、厚さは四センチくらい、手に取ると結構ずしク と重い。タイトルはRider’s New York City, っまクニユーヨーク市を訪れる観 光客のためのガイド•ブックである。

もちろんそれだけなら面白くもなんともない。ニユーヨーク市のガイド•ブックな んて、その気になればいくらでも手に入る。この本の面白さは、これが一九二三年に 発行されている点にある。一九二三年といえばかのローリング•トウヱンティーズの どまんなかで、ニユーヨークが空前絶後の繁栄の中で黄金色に輝いていた頃である。 このガイド•ブックはその頃のニユーヨ—ク•シティーが観光客や市民に向けていったい何をどのょぅな形で供していたのか、あるいはどれほどの光を放っていたのかを 実にリアルに我々に伝えてくれるのである。

フレモント•ライダー氏はライダーズ•ガイドブック•シリ—ズとしてこの他にもバミュ—ダ、ワシントン、ニュ—イングランド、カリフォルニア、フロリダ、西インド諸島といったところを編集•発刊している。

いかにも二〇年代アメリヵ庶民の旅行 熱をかきたてるよぅなライン•アップだ。景気はどんどん良くなっていくし、収入はどんどん増えていく。だから旅行でもしてたっぶりと現世を楽しみなさいといった感 じだ。それから五年も経たないぅちに大恐慌がやってきてそんな甘い夢がぺしゃんこに叩きつぶされることになるなんて、その当時は誰にも予測できない。

僕は残念ながらそのライン•アップのぅちの二ュ丨ヨ丨ク編しか手に入れることが できなかったが、この一冊だけでも相当に楽しくて、何度読みかえしても読み飽きな い。どこがそんなに面白いかといぅと、まずとにかく詳しいのである。何もここまで 詳しくやらなくったっていいんじゃないかど思えるくらい細密に一九二三年の二ュ丨ョ丨ク•シティ丨が隅から隅まで淡々と——かなり事務的に——描き出されているのである。押しつけがましい感動や余分な色づけはまったくといっていいくらいない。たとえば次の文章を読んでみてほしい。これはウォ丨ル•ストリ丨トの説明である。「ウォ丨ル•ストリ丨トとブロ丨ドウエイの交わる北東のかどにはユナイテッド•バ ンク•ビルディングがある。ビルの所有主はフア丨スト•ナショナル•バンクとバン ク•オブ•リパブリックだが、この両行の他にもいくつかの民間銀行や鉄道会社がここに事務所を置いている。№10ゥォ丨ル•ストリ丨トのニュ丨•ストリ丨トの入口の 向いにはアスタ丨•ビルディングがある。ここにはかつてフア丨スト•プレスビテリ アン教会が建っており、ジョナサン•エドヮ丨ズやジョージ•ホヮイトフィールドが 説教をした。……地価は一平方フィ丨ト八二五ドル』

こういう感じの文章が延々とどこまでもつづくのである°極端に言ってしまうと、ニュ丨ヨ丨ク市のヮン•ブロック、ヮン、ブロックの風景•街並•機能•にきわいと いったものが全部描写されているのだ。この細密さは病的と言ってもいいのではない かと思う。病的という表現が悪ければ、いささか神経症的である。いったいどのよう な観光客がたいして有名でもない通りにあるビルの便所の数やら、なんとかさんとい う人の邸の玄関に飾ってあるステンド•グラスの柄やらを気にするだろうか?

もちろんそれだけではない。途中に美術館があれば、その展示室の間取りから展示 品目録まで克明に記述してあるし、レストランがあればメニュ丨が引用してある。た いしたものだという気がする。これだけ調べあげるにはずいぶん手間がかかったこと だろう。

添付してある地図もかなり細かくて、それを広げて現在の二そ丨ヨ丨ク市の地図と 見比べているだけで結構楽しい。僕は実際にニュ丨ヨ丨クに行ったことはないのでよくわからないが、ニュ丨ョ丨クに詳しい方ならもっと楽しめるかもしれない。もっと も実際にニュ-ョ丨クに行ってしまうと気分的に圧倒されてしまって、かえって細か い部分に目配りがいかないんじやないかという気がしないでもない。どうも僕には現 在のニュ丨ョ丨ク•シティ丨よりは既に消滅してしまった一九二三年の幻の二ュ丨ョ丨ク•シティ丨の方が肌にあっているような気さえする。これもいささ力病的という 感じがしなくもないけれど。

 

まあ病的な部分はともかく、ニュ丨ョ丨ク•シティ丨を舞台にした古い小説を読む 時、このガイド•ブタクはなかなか役に立つ。とくにスコシ卜•フィシツジエラルド の『マイ•ロスト•シティ丨』というエシセイを読んだ時なんかはそうだった。フィッツジエラルドといえばまさに二〇年代、まさにニュ丨ョ丨ク。シテイ              丨……という ところだが、彼の小説にはニュ丨ョ丨ク•シティ丨を舞台にしたものは意外に少ない• ぱっと頭に浮かぶといえば『メイデ丨』、『リッチ•ボ丨イ』くらいのものである•彼 がニュ丨ョ丨クでデビュ丨し、ニユ丨ョ丨クとョ丨ロッバを往復しながら派手にニ〇 年代を送ったことを考えると、これはちょっと不思議な気がする。

何故フィッッジエラルドは二ューョークを舞台にした都会小説を書かなかったのか?

これはかなり面倒臭い設問で、説明しはじめると長くなってしまうからやめる。し かしこの『マイ•ロスト•シティ丨』というエッセイを読めば、そのあたりの事情は なんとなくわかっていただけるのではないかと思う。『マイ•ロスト•ッティ丨』の シティ丨というのは、もちろんニユ丨ヨ丨ク•シティ丨のことである。フィッ ツジェ ラルドは一九三二年に発表したこの子シセイの中で、ニユ丨ヨ丨ク•シティ丨とはい ったい自分にとって何だったのか、そしてまた自分はニユ丨ヨ丨ク•シティ丨にとって何だったのかということを切々と書いて切る。四百字詰めにして五〇枚ばかりのも のだけれど、実に上手いエッセイなので興味のある方は読んでみて下さい(『マィ•口 スト•シティ丨』中央公論新社刊)。

ただ、この『マイ•ロスト•シティー』は訳出するにはいささか厄介な代物である。 というのはこの作品にはあまりに多くの固有名詞が登場してくるからである。多いな どというものではない。まさに洪水である。地名•人名は言うに及ばず、レストラン の名前からドラッグストアの名前から、飲み屋の名前からダンサーの名前まで実に次 から次へと出てくる。一読してわかるものもあるし、わからないものもある。調べあ げてようやくわかったものもあれば、どれだけ調べてもわからないものもある。日本 でいえば大正時代のことだからアメリカ人に訊いてみたってなかなかわからない。訳 者としても、わけのわからないものをわからないままに日本語にしてしまうわけだか ら、これは非常に困る。

風俗小説や風俗記事の中ではよくこういうことが起る。もちろん作者は後世の読者あ るいは訳者を混乱させようと思ってこのような文章を書いているわけではない。彼ら はただ単に同時代の読者に向けて、ごく自然に文章を書いているだけである。つまそ の程度の固有名詞は読者に当然理解されるはずだという無意識的な前提のうえそうい った文章は成立しているのである。この「無意識的な前提」があるからこそ、文章に スピードが出てくる。また地名や人名を読者に向けて機関銃のようにビシビシと投げ つけていくリズムの面白さも生きてくるのである。フィッツジェラルド氏にしたっ て、そんな文章がまさか半世紀もあとに日本語に訳されることになるとは想像もしな かったろう。

ところがである、こういった文章を「まあいいや」という感じで開きなおってその日 本語に訳してしまうと、これらのいわばちんぷんかんぷんな固有名詞の洪水が文章的 な効果として意外に面白いのだ。わけがわからないなりに——というかわけがわから ないところがかえって——リアルなのである。このへんが風俗の面白さであり、恐さで ある。時の流れの不思議な作用によって、木が沈んで石が浮くということが起り得 る。つまり一般的に「重い」と考えられていたものが風化してしまい、逆に「軽い」と考えられていたものがしっかりと残ってしまう。この現象はヘミングウェイとフイ ッツジェラルドの作品の今日的意味を比較していただければわかりやすいのではない かと思う。

しかしまあそういう七面倒臭い理屈はやめよう。前述した『ライダーズ•ニューヨー ク•ガイド』とニューヨーク市の地図を手に『マイ•ロスト•シティー』を細密に、 実証的に、映像的に読んでみようというのがこの文章における僕の目論見である。も ちろん全文はできないから冒頭の文章だけをやってみることにする。

「朝まだき、ジャージーの岸辺を離れ、静かに進みゆくフェリー•ボートがまずあった。

五年後、十五の歳に私は先生に連れられてニューヨークを訪れ、二本の芝居を観た。 アイナ•クレアの『クエーカーの娘』、それにガートリュード•ブライアンの『リト ル•ボーイ•ブルー』。その結果私は、二人の女優への報われる見込みのない、それ 故にメランコリックな想いに囚われることになった。二人のうちのどちらかを選ぶな ザ•ガールザ•ガールんて無理な相談だった。選ぶことのできぬままに彼女たちは私 の頭の中で混ざりこんで、ひとつの愛しい存在へと姿を変えていった。「夢の少 女」、ふたつめのニューヨークの象徴である。フェリー•ボートの意味するものは勝 利、「夢の少女」の意味するものはロマンスだ」」

『マイ•ロスト•シテイー』

ここでは一人の男が少年期から青年期にかけて大都会に対して抱いた憧憬が三つに分 類されている。ひとつは物質的な成功であり、ひとつは華麗なロマンスであり、最後 のひとつは都市と同化し、いわば互いを「赦しあう」ことである。彼ははじめの二つ を手に入れることはできたが、最後の願いを却下され、後年まるで石をもって追われ るようにさびしくニューヨークを去っていくことになる。これが『マイ•ロスト•シ ティー』の"lost"の意味である。

それではまずとても単純なふたつの疑問。

① 何故フェリー•ボートが勝利を象徴するのか?

② 何故十歳のフィッツジェラルドが仅明けごろのフェリー•ボートに乗っているのか?

このふたつの疑問に答えるためには、我々は実際に一九◦六年の当時に帰ってみなく てはならない。

一九◦六年、ニューヨーク州バッファローに一人の少年が住んでいる。バッファロー はニューヨーク州とはいってもニューヨーク市からは四〇〇キロも内陸にある地方都市 である。父親はセールスマンで、収入もあまりぱっとしない。彼は十歳で、ハンサム で、頭がいい。そして自分の中に他人より秀でた何かがあると感じている。プライド も高い。そんな町の中の、そんな少年である。

そしてこの年、彼の一家はニューヨークに旅行にでかける。あるいはアトランテイッ ク•シティーにいる親戚を訪ねたついでにちょっと寄ってみたのかもしれない。とも かく少年にとっては初めてのニューヨーク訪問である。

パッファローから鉄道でニューヨークに行く最も一般的なコースは、パッファローか ピッツバーグ今フィラデルフィア今ジャージー•シティーである。ペンシルヴエニア 鉄道はフィラデルフィアを過ぎるとトレントン(NYCまで五七マイル)、プリンストン• ジャンクション(同四七マイル後年彼の入学するプリンストン行きの支線が出ている)、 エリザベス(同一五マイル)、ニューアーク(同一〇マイル)といっ駅を過ぎてパサイク河 を渡り、ハドソン河底のトンネルをくぐり、やがてマンハッタンの七番街にあるペンかシルヴエニア駅(いわゆるペン•ステーション)に到着           しないのである。何故しないかというと、一九〇六年にはまだペン•ステーションができていないからで ある。ペン•ステーションとハドソン•トンネルが完成する 一•九 一• ◦年以前には、ペ ンシルヴェニア鉄道はジャージー•シティーのハドソン河辺にあ中央駅でストップし ているのである。乗客はそこで列車を下り、目の前にある桟橋からフェリー•ボート に乗って、マンハッタン島に渡ることになる。

だからこそ少年は早朝のフェリー•ボートに乗っていたのである。もしその四年後で あったとしたら、彼は列車に乗ったままトンネルを抜けて七番街•三十二丁目にぽこ っと顔を出していたはずである。だからフェリーにも乗らなかったはずだ。なんだか 変なものだ。

さて一九〇六年の早朝に戻ろ令。少年の一家は,夜行列車に乗ってやってきたわけで ある。両親と彼、そして五つ年下の妹アナベルの四人だ。夜が明け、列車がジャージ 丨•シティ丨の終着駅に停まる。目の前にはハドソン河、そしてその先^はマンハッ タン島の高い街並が朝日を受けてど彳んとそびえ立っている。僕は写真でしか見たこ とがないけれど' ジャージ^— •ジティーから見る^タバッタンといぅのはちょっと凄い眺めである。少し才^ —-/<'—かもしれないけれど、奇跡的と言ってもいいくらいの眺 めだ。海に突き出たのっべりとした岩盤の上に石とガラスでできた摩天楼が所狭しと 林立しているわけである。それまで都会なんて一度も目にしたことのない少年にはこ のような光景はかなりシ身ツキングなものであったはずだ。

scott fitzgerald

『楽園のこちら側』で一躍時代の寵児となったスコツト

僕が彼の立場だったとしたら絶対に感動していると思う。そして彼のその感動はフエ リーに乗ってハドソン河を渡っていくにつれて、いやが上にも高まっていったのでは ないだろうか?

これが最初の一節の意味する光景である。乳白色の朝もやと、ハドソン河の静かな水 面と、摩天楼の列と朝日を想像していただきたい。まるで魔法の都に挑む童話の中の少年騎士のように、彼の前には光輝く白亜の街が広がっている。まるで新たな英雄の 到来を待ち受けるかのように...。だからこそフェリーから見るニューヨークの光景が 勝利を象徴しているのである。

さてそれではフィッツジェラルドの乗ったフェリー•ボートについてもう少しくわし く調べてみよう。ライダーズ版ガイドブックによるとペンシルヴェニア鉄道中央駅の 前にあるペンシルヴェニア鉄道専用桟橋からは当時二種類のフェリー•ボートが出て いる。ひとつはデズプロセス•ストリート•フェリーであり、ひとつはコートラン 卜•ストリート•フェリーである。フィッツジェラルドがどちらに乗ったのかはわか らないけれど、コートラントの方がずっと距離が短いから、たぶんこちらの方であろ う。

コートラント•ストリート•フェリーは文字どおりマンハッタン島コートラント•ス トリートに到着する。現在でいうとちょうどワールド•トレード•センターの真正面 に到着するわけだが、この一九◦六年当時にはもちろんワールド•トレード•センタ 一の——◦階建てのビルはない。そのかわりにコートラント、デイ、フルトンという 三つの古い通りがきちんとした升目を描いている 「 注•この文章が書かれた当時はま だワールド•トレード•センターのビルが存在していたが、今はもちろんない」。

とはいってもこのあたりがマンハッタン島の中心部であることに変りはない。このコ ートラント通りに並んでいた当時の高層ビルを列挙してみると、

「シンガー•ビルディングには美しい塔がついている(アーネスト•フラグ設計)。四一 階建てで地上から照明灯の先端までの高さは六一ニフィート。地下から旗の先までだ と七二四フィートある。床面積は九•五エーカー、便所の数は六◦◦、配管の全長は 一五マイル、配線の全長は三四二五マイル、評価額は八二◦万ドル。夜には一三〇〇万 燭光の電灯が点く」

「シンガー•ビルの隣りにはベネスン•インヴエスティング•ビルディングがある。三四階建て、高さ四八六フィート六インチ、床面積一三•五エーカー。評価額六ニニ 万ドル、土地を加えると一〇〇〇万ドルを超すだろう。設計はフランシス• H •キムボ ール。このビルはイタリア大理石のみを使って建てられてある。チャーチ通りに向け ての拱廊には全部で二万立方フィートのイタリア大理石が使ってあるが、この量は才 フィス•ビルとしては世界一である」

といったところだ。なかなかすごいビジネス街である。フィッツジェラルドの乗った フェリー•ボートはこのような一画に向けて進んでいったわけだ。ここで下りて数ブ ロック歩くと高架線のコートラント駅か、地下鉄のフルトン駅がある。

ニューヨークに行くことがあったら、一• 度ジャージーの中央駅から朝このフェリーに 乗ってコートラント通りで下りてみたいと思う。もっともこのフェリーが現在でもま だ存続しているかどうかは不明である。御存じの方は教えてください。

というわけで、フェリー•ボートについていろいろと書いているうちに紙数が尽きて しまった。こんな風に地図や資料を広げて文章を読みこんでいくというのもなかな楽 しい作業である。ほんの数行の文章からでも、どんどんイメージがふくらんでいそう いうことをやっていると、フェリー•ボートのエンジンのうなりや、十歳のスコッ 卜•フィッツジェラルドの心臓の鼓動までが聞こえてきそうな気がする。すぐれた文 章というのはまあそういうものなのだろう。


Published in The Scott Fitzgerald Book by Haruki Murakami (1988, rev. ed. 2007).

Photo Illustrations.


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